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福岡市博多区の「対馬小路(つましょうじ)」に行ってきました

福岡市博多区に「対馬小路(つましょうじ)」という地区があります。(博多港、博多リバレインからわりと近く)。お休みの日に、阿比留(あびる)が行ってきました。

地図を手に対馬小路をうろうろしましたが、なかなかお目当ての「旧対馬小路」と書かれた石碑を見つけることができず、近くの和菓子屋のおばちゃんに尋ねたところ、「ここに住んどらんけん、分からんっちゃんね」と。この界隈の方々もそういったものがあることをご存知ではない様子。改めて資料に目を通してみると、その石碑は、現在の対馬小路にあるのではなく、お隣の古門戸町(こもんどちょう)3丁目にあると書かれているではありませんか。

というわけで、古門戸町3丁目をうろうろ。すると、ありました、ありましたー!ビルの谷間にひっそりと。「オッペケペー節」で有名な川上音次郎の生家跡でもある、「沖濱稲荷」の敷地内に、小さな石碑が建っていました。

この「対馬小路」に関しては、『福岡対馬会だより』(平成21年1月21日発行、第40号)の梅野美実(うめのはるみ)さんによる「博多の街の小さな対馬」でたいへん分かりやすく紹介されていましたので、以下にご紹介させていただきます。


◇博多の街の小さな対馬 梅野美実(うめのはるみ)

対馬行きのフェリー・ジェットフォイルの発着する「築港」から、中洲方面に5分ほど歩いたところに「対馬小路」という地名の街があります。「対馬小路」と書いて、何と読むのか、皆さんご存知ですか?「ツマショウジ」と読みます。昔は「ツシマショウジ」と読んでいたらしいのですが、いつのころか現在の「ツマショウジ」と呼び名が変わっていったようです。いずれにしても、博多の地になぜ「対馬」という字の地名がついているのでしょうか。

それは、豊臣秀吉が、戦国時代に、焼け野原となった博多の街を、復興するための町づくりを行ったことに由来します。豊臣秀吉が行った博多の街づくりに、「太閤割り」という街づくりがあり、当時の博多の街に「対馬小路」を含めて7つの「小路」を造っています。そして、そのころ「大下(オオシモ)の浜」と呼ばれた、当時海岸であった所に当時の対馬の殿様であった宗対馬守義智が、豊臣秀吉から拝領した対馬藩の蔵屋敷があったことから、「対馬小路」と名づけられたそうです。

当時、7小路あった小路の名前も、特に昭和になってからの町境、町名変更により、他の6小路の名前は全て無くなり、「対馬小路」のみが昔からの名前を今に残しています。

「対馬小路」のみを残してくれたとは、博多の人々も粋な計らいをしてくれたものですね。

それから、「対馬小路」はオッペケペー節で有名な、川上音次郎の生誕の地でもありまして、生家跡に「沖濱稲荷」という稲荷神社が祭ってあります。但し、稲荷神社の場所は古門戸町3に建っていますが昔は、古門戸町も「対馬小路」の一部でしたので、わざわざ「旧対馬小路」であるとの説明書きの碑がたっています。

皆さん、一度「対馬小路」まで足を伸ばしてみませんか?


ビルの間にたたずむ沖濱稲荷神社。
対馬小路を示す石碑は、神社の石碑の後ろにひっそりとあります。
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by tsushimafukuoka | 2009-04-30 13:44 | しる